東日本大震災の復興ボランティアを経験して

環境教育プログラムが終了した後、東日本大震災が起きました。今さら説明する必要はありませんが、フクシマでの原発事故の悲惨な状況を契機に日本の世論は脱原発再生可能エネルギー導入に大きく舵が切られました。

 

しばらくして、勤務先で東北復興支援の取り組みが始まりました。当時は仕事が忙しく、復興支援ボランティアには参加できる余裕がありませんでした。ある時、先輩から復興ボランティア参加の勧めが私の心を動かしました。先輩のアドバイスは、「一口に東北といっても、津波の被害にあった岩手や宮城と原発問題を抱える福島では抱えている課題が全く違う。最低3か所に行くように」というものでした。

 

年に1~2度、有休を取得して復興ボランティアに参加しました。先輩のアドバイス通り、気仙沼原発のあった女川、石巻、福島の浪江、いわきなど、計10回ほど行き、ライフワークのようになりました。気仙沼など津波で町が全くなくなってしまったところは、見るも無残です。しかし人々の心は明るい。工事が始まり、次々に建物が建ち始めており、新しい街が作られていくのが見られる。今は仮設住宅でも、明日への希望が湧くからです。

 

一方、福島の方々の表情は硬く、暗いのです。津波の被害に遭った方々と違い、自分たちの家は無事ですが、放射線の線量が高く、生まれ故郷に戻れないのです。戻れる故郷がない人は、仮設住宅にいても、明日への希望を持つことは難しい。明日への希望が持てる地域と持てない地域。原発被害に苦しむ方々を、微力ですが何とかお救いできないかと思いました。

 

昨年、浪江町から車で北上し、立ち入り禁止地域ぎりぎりのところまで行きましたが、ゴーストタウンとなっていました。高速道路も一般道も、電光掲示板に線量の表示が出ています。また、この地域は、車の乗り入れはOKだが、降車はNGという地域もありました。


もちろん、車はほとんどが工事車両でした。マスコミが報道しないため、我々はフクシマ問題が日々に疎くなっていますが、このような光景を見ると、フクシマ問題は全然終わっていないのです。

 

ビジネスマンとしては、「発電コストが低く、CO2を排出しない原発は電源の一つとして残しておいた方が良い」「あまり感情的に脱原発を判断しない方がよい」という考えでしたが、このような復興支援を重ねることで、原発のない社会に向けて、再生可能エネルギーに舵を切るべきだという思いがどんどん強くなっていきました。

 

原発に恐怖に怯えて暮らすのではなく、原発に頼らない安心な社会を作ることが、我々親世代の使命であり、後世に「あの時の判断は間違っていなかった」と言われるように、主体的に働きかけなくてはいけないという思いがますます強くなりました。

 

震災発生当時は、自分が再生可能エネルギーの投資家になるなど露も思っていませんでしたが、長年にわたるボランティアの経験を通じて、再生可能性エネルギー普及への強い動機になったことは間違いありません。